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特別収容プロトコル: ただ、目の前には1本の剃刀がある。その刃は白を煌めかせ、貴方はそのグリップを手で握りしめた。冷たい感触と、脈打つ血液が緊張を全身に伝え、ほのかな湿り気がその黒い金属製をゆるやかに濡らす。壊れた暖房器具は底冷えするような空気を吐き出し続けているにも関わらず、それに反比例するようにつぎはぎだらけの白衣の背部は、じっとりと気味の悪い感触を残していた。—それは小刻みに震えているように見える。手のみが震えているのか、脳が震えているのか、はたまた全身が震えているのか。恐怖か、悲哀か、憤怒か、悦びか。それらを判断する思考を、今の貴方は持ち合わせてはいない。しかし、それらは全て幻である。
切れ味を図るために、机の上に乗せられた束から書類を1枚、貴方は抜き出した。それが重要なのか不要なのかに関わらず、紙であることに意味があった。中空へと持ち上げたそれに貴方は躊躇いなく剃刀を這わせる。じょり、じょり、と削るような音がして紙はあっけなく二つに分かたれた。足元に紙であったものが、はらはらと揺れ落ちる。分かたれた半身を、背もたれの裏へと投げ捨てた。そして再び、剃刀と対峙する。しかし、これらは全て幻である。
裏返した剃刀は先ほどと変わらぬ煌めきを虹彩へと跳ね返した。どれだけ近づいてそれを凝視しようとも、刃こぼれの1つさえ、見つけることはできない。それは貴方のあらゆる部位でさえ、切り取ることができる。ゆっくりと、剃刀を傾けていく。一瞬の冷たい感触が、その後、永遠の生暖かい感触が、瞼を滴り落ちた。目を瞑っているわけでもないのに、貴方の視界は赤く染まっていく。しかし、その感触さえもが幻である。
水音に導かれるまま、貴方は窪みの深く、深くまで剃刀を押し込んでいく。柔らかい肉を裂く感触の最中、引っかかるような管さえも弾けるような音を立てて、そうして剃刀の先端は最奥へと辿り着いた。36度に近い温度が、親指と人差し指にぬるりと纏わりついた。震えているのは、気のせいではない。そこから、貴方は10秒ごとに1度、凹みに沿って時計回りに剃刀を動かそうと試みる。しかし、何かが引っかかっていて、上手くそれを為すことができない。脳に直接、硬質な金属同士がぶつかり合うような音が響き渡った。ただし、その音も幻である。
ぐじゅり、と泡立つような音が静かに耳の内側から聞こえた。貴方は慎重に、剃刀をわずかに引き抜いていた。そして再び、今度は確実に、剃刀を窪みに合わせて時計回りに回転させていく。ぶつ、ぶつ、ぶつ、と一定の間隔で枝を切り落としていく。切り落とすたび、赤は黒へと変色していった。そうして刃が反円を描いた時、貴方の右腕にかかっていた「重さ」が消えた。その勢いのまま、残りの外側を剃刀でなぞると、落ちて、革靴の先端を霞めて、そうして見えなくなった。だが、それも幻である。
体温の黒くこびりついた銀を眺め、貴方はそれを掬うようにして両手の真ん中に置いた。それを、右のように落とす事のないよう、1分をかけて立ち上がる。朽ち果てて黄色く変色した紙が、革靴の踵へへばり付いて、かさりと音を鳴らしている。180度旋回をする。貴方の左は確かに出口の光を捉えていた。複数の細かな音が反響する、黴臭い部屋の中を、決して転ばぬように用心して進んでいく。しかし、ここで感じる全てのことは幻である。
出口の先には、暗色が広がっている。しかし、今までいた部屋より、数倍明るいと貴方の脳は錯覚していた。ひび割れたタイルの上に、擦り切れた革靴を滑らせるようにして歩みを進めていく。進むごとに、道の端に座り込んだいくつもの骸骨が、貴方の「穴」を見て、怪訝そうな表情をして笑っている。そのたびに貴方は「穴」の存在を、明確に、認知する。しかし、認知した傍から忘れていく。何故ならば、それは貴方が足を止める理由にはならず、その実感ですら幻に過ぎないからである。
進むごとに、耳からは不特定多数の笑い声が響いてくる。アンドリュー、ブライアン、パトリシア、ウェズリー。そのどれもに聞き覚えがある。尚且つ彼らは貴方の左耳に息を吹きかけ、右耳で囁くように頭蓋骨を鳴らしている。揺らしている? 肩にゴツゴツとした感触を覚える。それは下へ、下へ、下へ、増えていく。歩みを止めるようにして、抱きしめられる。56kgの重みでぐらついて、両手に乗せた、黒いそれを落としそうになる。ただ、貴方はそれを引き摺って歩く。彼らもまた、幻であるが故に。
何人もを引き摺って、辿り着いたボロ小屋の扉を足で蹴とばして、腐り果てたテーブルを貴方は認知した。貴方はその上に音を立てぬようゆっくりと剃刀を置いた。そして後ろ向きに部屋を出る最中、ざり、と砂が靴底を擦った。瞬きすらも忘れて、そこで停止する。しかし、それ以上、何かが起きる事はなかった。貴方は呼吸を止めたたまま、確かに足を持ち上げ、収容室から出て、扉を閉めた。
封鎖した扉の内側から、何かを啜る音が、かすかに聞こえてくる。ただし、それについて貴方は知る必要がなく、また知ろうとも思うことはない。カラン、と音を立てて、部屋の向こうに剃刀が転がった。
説明: プロトコルは適切に実施され、それは再び収容状態へと移行する。それだけは事実だった。
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